ポイント解説
イギリスで起こった2つの革命。ピューリタン革命によりイギリス絶対王政が倒され、名誉革命の後は責任内閣制が確立していきました。王朝はテューダー朝からステュアート朝(ピューリタン革命で断絶し、王政復古で復活)、ハノーヴァー朝へと変わっていきました。
0.ステュアート朝の成立
・1603~49、1660~1714年
※1603年、エリザベス1世が死去しテューダー朝が断絶
1.ジェームズ1世:在位1603~25
・王権神授説を主張し専制政治を行う
→ピューリタン(清教徒)中心の議会と対立
※王権神授説…王の権力は神から授けられたとする思想。絶対王政を正当化
2.チャールズ1世:在位1625~49
①権利の請願:1628年
・議会がチャールズ1世に提出した文書
・議会の同意のない課税の禁止、不当逮捕の禁止などを要求
→チャールズ1世は無視。翌年議会を解散
②短期議会:1640年
・スコットランドの反乱を受け、議会を招集
※戦費・賠償金を調達するため
→議会は課税を拒否
→チャールズ1世はわずか3週間で解散
②長期議会:1640~53年
ⅰ.王党派と議会派の対立
・王党派:国王を支持
・議会派:反国王勢力
→1642年、両者による内戦がおこる
→議会派の勝利:クロムウェルの活躍
ⅱ.議会派の分裂
・長老派:立憲王政を主張
・独立派:制限選挙による共和政を主張
※クロムウェルの一派
・水平派:普通選挙による共和政を主張
※急進的な一派
※独立派が優勢
※立憲王政・共和政などの意味は、別途補足解説を参照してください。
ⅲ.国王の処刑:1649年
・クロムウェルはチャールズ1世を処刑
→共和政を開始
※ピューリタン革命:イギリス絶対王政を終わらせた市民革命
3.共和政:1649~60年
※実際はクロムウェルの独裁政治
①クロムウェルの征服活動
・1649年、アイルランド征服
・1650年、スコットランド征服
②航海法:1651年
・イギリスの貿易を保護・促進する
・中継貿易で栄えるオランダを排除する目的
③イギリス=オランダ戦争(英蘭戦争)
・第1次英蘭戦争(1652~54年)
…イギリスの航海法に反発したオランダとの戦争
※1660年代に第2次、70年代に第3次の戦争。イギリスの優勢に終わる
④厳格な軍事独裁体制
・1653年、クロムウェルは終身の護国卿になる
・議会との対立、国民の不満を招いた
4.王政復古:1660年
①チャールズ2世:在位1660~85
ⅰ.即位
・クロムウェルの死後、国王に就任
※ステュアート朝の復活
ⅱ.議会との対立
・絶対王政の姿勢を見せたため
→議会の抵抗:審査法、人身保護法の制定
※審査法:官吏を国教徒に限定
人身保護法:不当な逮捕や投獄を禁止
②ジェームズ2世:在位1685~88
ⅰ.王位継承をめぐる対立
・トーリ党:王位継承に賛成
→のちの保守党
・ホイッグ党:王位継承に反対
→のちの自由党
ⅱ.名誉革命:1688年
・ジェームズ2世は絶対王政とカトリックの復活を強行
→議会はオランダからウィレム3世と妻メアリを招く
→ジェームズ2世はフランスへ亡命
※流血なしで革命が成功したことから名誉革命とよばれる
③新国王の即位
ⅰ.権利の宣言:1689年
・議会がまとめた
→ウィレム3世とメアリが承認
ⅱ.即位
・ウィレム2世はウィリアム3世として、メアリはメアリ2世として即位(共同統治)
ⅲ.権利の章典:1689年
・権利の宣言を成文化して発布
・議会主権に基づく立憲王政が確立
5.イギリス議会政治の発展
①アン女王:在位1702~14
ⅰ.大ブリテン王国の成立
・1707年、イギリス(イングランド)とスコットランドが合併
ⅱ.ステュアート朝の断絶
・アン女王の死により断絶
②ハノーヴァー朝の成立:1714~1917
ⅰ.ジョージ1世:在位1714~27
・ドイツから招かれ国王に就任
※1917年、ウィンザー朝と改称し現在に至る
ⅱ.責任内閣制の成立
・ジョージ1世は国政を首相のウォルポールに一任
※ジョージ1世は英語がわからない
・内閣は国王にではなく、議会に対して責任を負う
→「王は君臨すれども統治せず」の原則が定着