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中学歴史:江戸時代③/解説(ざっくり)

6.新しい学問・思想と化政文化

①新しい学問や思想

 国学というのは、仏教や儒教が伝わる以前の、日本人特有の考え方などを明らかにしようとする学問です。「古事記伝」を書いた本居宣長が大成しました。

 

 国学に対し、蘭学とは、オランダ語を通じて西洋の技術や知識を学ぶ学問です。「蘭」はオランダの意味ですね。ヨーロッパの国ではオランダだけが日本と貿易を許されていたので、日本人が外国のことを学ぶにはオランダ・オランダ語を通して、ということになります。

 蘭学者としては杉田玄白らがいます。杉田玄白は、ヨーロッパの人体解剖書を翻訳して18世紀後半に「解体新書」を出版しました。

 また、19世紀に入ると、伊能忠敬が西洋の測量術を学び、より正確な日本地図を作成しました。

 

化政文化

 19世紀前半、江戸を中心に栄えた、庶民を担い手とする文化です。元禄文化は上方つまり大阪や京都を中心としていました。

 

 絵画では、美人画というジャンルで喜多川歌麿が多くの作品を残したほか、風景画では葛飾北斎の「富嶽三十六景」、歌川広重安藤広重)の「東海道五十三次」が有名です。

 

 文学作品では十返舎一九の「東海道中膝栗毛」、俳諧では小林一茶らが活躍しました。松尾芭蕉は元禄文化なので注意しましょう。

 俳諧の5・7・5の形式で庶民の生活などをおもしろおかしくよんだのが川柳、5・7・5・7・7の和歌の形式が狂歌です。いずれも庶民の間で流行しました。

 

 教育も広がりを見せました。武士のための学校として、各地の藩が設立したのが藩校です。人材育成のための学校で、儒学などを教えました。

 寺子屋は、各地の町や農村に設立された庶民のための教育機関でした。生活に必要な読み・書き・そろばん(計算)などを教えました。

 

 

7.幕藩体制の動揺

政治の内容にもどります。

 

①外国船の来航と幕府の対応

 18世紀後半から、日本には貿易を求めて外国船が多く来航しました。19世紀になるともっと増えてきました。外国船の来航はペリーが初めてというわけではありません。

 

 このような事態への対応として、幕府は北方の調査に力を入れました。間宮林蔵樺太を探検して島であることを発見したのも、こういった背景があったのです。

 

 1825年、幕府は鎖国政策を守るために、異国船打払令外国船打払令)を出し、日本に近づく外国船を追い払うことを命じました。この法令にもとづいて、1837年にアメリカの商船を打ち払う事件が起こると、蘭学者の渡辺崋山高野長英が幕府の政策を批判したために罰せられました(蛮社の獄

 

②国内の動揺

 幕府をなやませたのは、外国船の来航だけではありません。1830年代に天保のききんが発生し農村で百姓一揆、都市で打ちこわしが急増しました。さらに幕府にとって衝撃的だったのは、幕府のもと役人の大塩平八郎が、反乱をおこしたことでした(大塩の乱大塩平八郎の乱))。

 

③農村の変化

 農村は本来であれば自給自足が幕府の方針でしたが、そんなことおかまいなしに大商人がやってきて工場を建設し、農民をやとって工場で分業生産させる事例が増えてきました。これを工場制手工業マニュファクチュア)といい、19世紀以降に広まりました。

 

天保の改革

 国内外の危機に対応するために、老中水野忠邦は天保の改革を始めました。

まず、物価の上昇をおさえるために、株仲間の解散を強行しました。これは逆効果になったので、10年後には株仲間が再興されますが。

 また、江戸に出かせぎに来ていた農民を農村に帰らせ、農村の復興をはかりました。

 さらに、幕府の収入を上げるために、江戸・大阪周辺の農村を幕府領にする命令を出しましたが、大名や旗本の反対で中止となりました。幕府が決めたことが、反対を受けて中止となるということは、それだけ幕府の力がおとろえていたことでもあります。

 

 結局、天保の改革はは2年余りで失敗に終わってしまいました。


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