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中学歴史:江戸時代②/解説(ざっくり)

Ⅰ.幕政の安定

1.5代将軍徳川綱吉の政治

17世紀の後半になると、幕府政治も安定してきました。5代将軍徳川綱吉の将軍在職期間は1680~1709年の約30年間でしたが、年代は大まかにおさえておけば十分です。

 

綱吉が発令した法令で有名なのは、生類憐みの令ですね。犬などの動物を保護するという極端な動物愛護令で、人々は大いに迷惑しました。

 

2.儒学者新井白石の政治

6・7代将軍の時期は、儒学者の新井白石正徳の治とよばれる政治を行いました。白石は日本から金・銀が海外へ流出するのを防ぐために、長崎での貿易額を制限するなどの政策を行いました。

6・7代将軍はいずれも数年で亡くなってしまったため、白石の政治が行われたのは18世紀の初めの10年足らずの期間(1709~1716年)でした。

 

3.元禄文化

元禄文化は、17世紀後半の5代将軍徳川綱吉の時期を中心に、京都や大阪など上方とよばれる地域を中心に栄えた町人文化です。

 

さまざまな分野の作品を確認していきます。

連歌をもとに成立した俳諧の分野では、松尾芭蕉が「おくの細道」という紀行文を完成させました。

人形浄瑠璃では脚本家の近松門左衛門が活躍しました。

 

町人の生活や文化をえがいた絵画として浮世絵が庶民に親しまれましたが、そのおもな作者である菱川師宣は、「見返り美人(図)」などの作品を残しました。

 

桃山文化で出雲の阿国が始めたかぶき踊りは、江戸時代になると歌舞伎として発展し、庶民に親しまれました。 

 

なお、元禄文化より前の17世紀前半には、俵屋宗達風神雷神図屏風」などのすぐれた絵画もありました。ほかにもは尾形光琳という人物もいました。


Ⅱ. 幕政の改革

1.享保の改革

18世紀にはいると、幕府の財政難が問題となってきました。1716年に8代将軍になった徳川吉宗は、将軍をやめる1745年までの約30年間にわたり、改革政治を進めていきました。これを享保の改革といいます。

 

吉宗は財政難に対応するため、新田開発を積極的に進めました。つまり、海や沼地を干拓して耕地面積を広げ、年貢収入を増やそうというものです。

 

武士に対しては質素・倹約をすすめてぜいたくをいましめました。

 

さらに全国の大名に対しては、石高に応じて幕府に米を献上させることにしました。これを上げ米の制といいます。その見返りに参勤交代をゆるめ、大名が江戸にいる期間を1年から半年に短縮させました。この上げ米の制は、期間限定で行われました。

 

吉宗はこれ以外にも、目安箱を設置して庶民の意見を取り入れようとしたり、裁判の基準となる法律として公事方御定書を制定したりしました。

 

享保の改革は一定の成果を収め、幕府の財政は一時的に立ち直りました。

 

2.老中田沼意次の政治

吉宗の後、少し間をおいて18世紀後半に登場したのが老中田沼意次です。

 

田沼意次は財政難を解決するために、商人の力を利用することにしました。そのために、商人たちに株仲間の結成を積極的に認め、そのかわりに営業税を納めさせることで、幕府財政を立て直そうとしたのです。

 

しかし、田沼の政治ではわいろが横行するなどして政治が乱れ、田沼意次に対する批判も高まりました。

さらに凶作によって天明のききんが発生し、農村で百姓一揆、都市部で打ちこわしが急増するなど、世の中も乱れました。

結局、田沼意次は失脚し、田沼の政治も終わりました。

 

3.寛政の改革

田沼意次の後に登場したのが、老中松平定信でした。松平定信による改革を寛政の改革といい、18世紀の終わりごろ(1787~1793年)の約6年間続きました。

 

定信は、倹約令を出してぜいたくをいましめたほか、江戸に出かせぎに来ていた農民を農村へ帰らせようとしました。農民は農業にはげんでしっかりと年貢を納めよ、ということですね。

 

武士に対しては、儒学のなかでも朱子学を積極的に学ばせました。

 

また、借金に苦しむ旗本・御家人(ずれも武士で、将軍の家来)を救済するために、借金を帳消しにするなどの政策をとりました(鎌倉時代や室町時代は徳政令といいましたが、江戸時代は徳政令とは言わないので注意しましょう)。

 

ほかにも、政治を批判する出版物の統制などきびしい改革を進めていきました。 

 

しかし、このような政治改革には人々の不満が高まり、やがて定信は老中をやめさせられることになり、改革は6年余りで失敗に終わりました。


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