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中学歴史:戦国時代、安土桃山時代/解説(ざっくり)

 戦国時代は、応仁の乱が起こった1467年から、豊臣秀吉によって天下統一がなされる1590年まで続きました。

 一方、安土桃山時代は、室町幕府がほろんだ1573年から、江戸幕府が開かれる1603年までです。ですので、戦国時代は室町時代(1336~1573年)と安土桃山時代にまたがっています。

 

0.戦国時代、安土桃山時代の流れ

 簡単にいえば、ヨーロッパ人の来航(鉄砲・キリスト教) → 織田信長の登場 → 豊臣秀吉の登場・天下統一という流れです。

 

 

1.ヨーロッパ人の来航

 1543年、ポルトガル人の乗った船が種子島に流れつき、日本に鉄砲が伝わりました。鉄砲は新しい武器として日本中に広まり、戦国大名によって活用されることとなりました。

 さらに1549年には、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えました。

 キリスト教は一般の庶民だけでなく、戦国大名にも広まりました。 キリスト教を信仰した大名のことをキリシタン大名といいます。キリシタン大名のなかには、4人の少年使節をローマ教皇のもとへ派遣する者たちもいました。

 大名がキリスト教を信仰した理由の1つとして、スペイン人ポルトガル人との貿易を有利にするため、ということが挙げられます。当時の日本ではスペイン人・ポルトガル人のことを南蛮人とよび、かれらとの貿易を南蛮貿易といいます

 

2.織田信長の統一事業

 戦国大名のなかから頭角を現し、天下の統一に向けてつき進んだ人物が、織田信長です。信長は1560年の桶狭間の戦い今川義元を破り、その名を世に知らしめました。

 信長はその勢力を増していき、京都に入ることにも成功しました。

 1573年、室町幕府の15代将軍足利義昭を京都から追放しました。これにより、室町幕府はほろびました

 1575年には、鉄砲を効果的に使う戦法で、武田氏に勝利しました。この戦いを長篠の戦いといいます。

 さらに信長は琵琶湖のほとり(滋賀県)に安土城を築き、天下統一のための拠点としました。

 

 経済政策では、それまでの座を廃止して自由な商業活動をうながす楽市・楽座を出しています。ほかにも、関所を廃止して自由な行き来を許すことで、経済活動が活発になるようにしました。

 

 宗教面ではキリスト教を保護する一方、伝統的な仏教勢力とは対立しました。

 

 天下統一まであと少しというところまで行った信長でしたが、1582年に家臣の明智光秀が反乱を起こしました。この本能寺の変で信長は自害し、天下統一の夢は果たせませんでした。

 

 

3.豊臣秀吉の統一事業

 信長が本能寺の変でたおれた後、明智光秀をたおして信長の後継者として名乗りを上げたのが豊臣秀吉でした。

 秀吉は大阪城を築いて拠点としました。

 秀吉は朝廷から関白に任命されて政治の正当な実権をにぎりました。また、豊臣姓も与えらました(それまでは羽柴秀吉)。

 そしてついに、1590年天下統一を達成しました。こうして戦国時代は終わりをつげました。

 日本国内を統一した秀吉は、さらに明(中国)の征服をめざし、2度にわたって朝鮮に出兵しました。しかしこれは失敗に終わり、豊臣政権がおとろえる結果となってしまいました。

 

 

秀吉が行った政策としては、太閤検地刀狩があり、この2つの政策で兵農分離が進みました。

 まず太閤検地とは、田畑の面積や収穫高を調べて、その土地の収穫量を予測して石高という新しい基準で示した政策のことです。

 刀狩は、農民から刀や鉄砲などの武器を取り上げた政策で、その目的は、農民の一揆を防ぎ耕作に専念させるため、でした。

 この太閤検地刀狩を通して、武士と農民の身分の区別が明確になりました。このことを兵農分離といいます。

 

 

 

4.桃山文化

 信長や秀吉の時代に栄えた文化を桃山文化といいます。その特徴は、戦国大名や大商人の権力・富を背景とした、豪華で壮大な文化ということがいえます。

 

 壮大な文化ということで言えば、戦国大名の城に壮大な天守閣がつくられました。信長の安土城、秀吉の大阪城のほか、世界遺産にもなっている姫路城(白鷺城)などがあります。

 絵画では、 狩野永徳の代表作唐獅子図屏風」があります。

 

 秀吉にも仕えた千利休は、茶の湯を大成しわび茶を完成させました。

 江戸時代の歌舞伎のもととなったかぶき踊りも、この時代に女性の出雲の阿国が始めました。

 


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