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中学歴史:鎌倉時代②/解説(ざっくり)

 

4.鎌倉文化

 鎌倉時代の文化について確認していきます。

 

①建築・文学

 建築では、東大寺南大門が有名です。東大寺そのものが建てられた時代は覚えてますか? 奈良時代の天平文化のとき、聖武天皇ですね。この南大門の左右には、2体の金剛力士像が置かれています。

 

 続いて、文学です。鎌倉時代の和歌集として、新古今和歌集」があります。編集を担当した藤原定家らの和歌が収録されています。

 「古今和歌集」はいつの時代の和歌集でしょうか? 平安時代の国風文化、紀貫之らの編集でしたね。

 

 このほか、軍記物の平家物語」があります。これは、源平の争乱や、平氏の繁栄・没落をえがいた作品で、琵琶法師によって各地で語り伝えられました。

 

 随筆では、鴨長明方丈記」、兼好法師吉田兼好)の徒然草」がありました。

 

②鎌倉時代の新しい仏教

 鎌倉時代には、新しい仏教も広まりました。全部で6つあります。宗派と開いた人物の名前をセットで覚えていきましょう。

 

 まず、最初の3つは、念仏を唱えるというもの。念仏宗ともいわれます。

 浄土宗法然によって開かれました。法然は、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることを説きました。

 

 浄土真宗一向宗)は法然の弟子であった親鸞によって開かれました。親鸞は悪人こそ救われる、と説いたのが特徴です。

 

 時宗は、一遍によって開かれました。一遍は踊念仏という独特のやり方で布教を展開しました。踊念仏とは、文字通り、集団で念仏を唱えながら踊るというものです。

 

 4つめの宗派は、日蓮が開いた日蓮宗です。日蓮宗では、念仏ではなく法華経の題目「南無妙法蓮華経」を唱えることを説きました。

 

 あとの2つの宗派は、禅宗とよばれる宗派です。これは、座禅によって自分で悟りを開こうとする宗派で、臨済宗曹洞宗がありました。

 栄西が伝えたのが臨済宗です。臨済宗は、幕府など権力者の保護を受けて発展したという点が大きな特徴です。

 禅宗のもう1つは、道元曹洞宗です。こちらは、ひたすら座禅を行うことを説いた宗派でした。

 

 

5.元寇

 13世紀はじめ、チンギス・ハンによってモンゴル帝国が建国されました。その孫の1人がフビライ・ハンでした。

 フビライ・ハンは、国号をとし、日本に対しては服属を求めてきました。これに対し、当時の鎌倉幕府の執権北条時宗は服属を拒否しました。すると、元は大軍を率いて日本をおそってきました。これが元寇です。

 

②2度の襲来

 元から攻め込んできたのは2回、1274年と1281年でした。

 1274年の1度目の戦いでは、日本の御家人は元の戦い方に悩まされました。

日本では一騎打ちで戦う慣習があったのに対し、元は集団戦法火薬を用いた武器で戦いをいどんできたため、御家人たちは大いに苦戦しました。しかし、暴風雨によって元軍は引き上げ、日本はどうにか助かりました。

 

 その後も元は日本に服属を求めてきましたが、日本はこれを無視し続けました。

 こうして、1281年に2度目の戦いが始まりました。

 このときは、幕府が海岸に築かせていた石塁防塁)の効果もあって、元軍はなかなか上陸できませんでした。さらに、またも暴風雨が発生し、元軍は大きな被害を受け、引き上げました。

 

 

6.鎌倉幕府の衰退

 鎌倉時代の後半、御家人の生活は苦しくなっていきました。その理由は、当時は分割相続が行われていたため、代を重ねることで御家人の領地が小さくなっていったことと、元寇での戦いに対する恩賞が不十分であったことが挙げられます。

 元寇は外国との戦いであったため、新たな土地が得られなかったことも大きな要因です。

 

 こうして、御家人は幕府に対して不満をもつようになりました。

 幕府は、御家人を助けるために、1297年に徳政令永仁の徳政令)を出しました。その内容は、借金の帳消しや、御家人が失った土地をただで取りもどさせる、というものでしたが、かえって経済が混乱し、幕府への不満がますます高まる結果となりました。

 幕府に従わない悪党とよばれる新興の武士なども出現するようになりました。 

 

7.鎌倉幕府の滅亡

 このような状況のなか、後醍醐天皇が政治の実権を朝廷に取りもどそうとして、幕府をたおす計画を立てました。

 これに有力御家人の足利尊氏らも協力し、ついに、1333年に鎌倉幕府がほろびました。

 


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