歴史6-4 世界恐慌と軍部の台頭 解説

1.世界恐慌

1929アメリカニューヨークで株価が大暴落したことをきっかけに、世界に混乱と大不況が広がりました。これを世界恐慌といいます。

 

各国の対応を見ていきましょう。まずアメリカルーズベルト大統領は、恐慌への対応策としてニューディール政策をとりました。これは、政府がダムの建設などの大規模な公共事業を積極的におこして、失業者に職を与えるというものです。

 

一方、多くの植民地を持つイギリスフランスは、本国と植民地との貿易を拡大し、それ以外の国の商品に対しては高い関税をかけるという政策をとりました。これをブロック経済といいます。

 

これらの国々に対し、社会主義国ソ連は、5か年計画を進めていたため恐慌の影響を受けることなく、順調に成長を続けました。

 

 

2.政党政治の行きづまりと軍部の台頭

世界恐慌の影響を受けた日本は、1930年代には昭和恐慌とよばれる深刻な不景気に悩まされました。財閥と結びついた政党に対する信頼が失われていく一方で、軍部が台頭してきました。

 

1930年、ロンドン海軍軍縮会議が開かれました。日本はイギリスアメリカと協調し、軍縮条約を結びましたが、これに不満を持つ勢力によって浜口雄幸首相がおそわれ、内閣は退陣に追い込まれました。

 

1931年、中国東北部で関東軍(現地の日本軍)が南満州鉄道の線路を爆破し、軍事行動を開始しました。これを満州事変といいます。関東軍は満州の主要部を占領すると、翌1932年にはこの地域を中国から切りはなして、満州国の建国を宣言しました。

 

このような動きに対し、犬養毅首相満州国の承認に消極的でした。すると、1932年に海軍の青年将校が首相官邸をおそい、犬養毅首相を暗殺しました。このできごとを五・一五事件といいます。

これにより、1924年の加藤高明内閣から続いていた政党内閣の時代も終わりを迎えました。

 

1933年の国際連盟の総会では、満州国の建国を認めないことと、占領地から日本軍が引き上げることが勧告されました。この決定に不満をもった日本は国際連盟を脱退し、満州の支配を強化していきました。

 

1936年には、陸軍の青年将校が首相官邸や警視庁などを襲撃する二・二六事件が起こりました。その結果、軍部の政治的な発言力が拡大していくことになりました。