歴史5-5 明治時代初期の外交 解説

1.[岩倉使節団]の派遣

明治新政府の大きな課題の1つが、江戸幕府が幕末に欧米と結んだ[不平等条約]の改正でした。

 

政府は[不平等条約]の改正交渉を行うため、1871~1873年に右大臣[岩倉具視]を全権大使とする[岩倉使節団]を派遣しました。

 

しかし、日本は法整備など近代化が進んでいないこともあり、改正交渉を希望する使節団は欧米から相手にされませんでした。

 

欧米の国々からすれば、「日本とかいうアジアの遅れた国と対等な付き合いをする必要はない」といったところでしょうか。

 

そのため、使節団は欧米の進んだ産業や政治、社会などの状況を視察することに重点を移し、日本の国力充実の必要性を痛感して帰国しました。

 

なお、この使節には大久保利通木戸孝允など政府の有力者も多く参加したほか、当時7歳の[津田梅子]などの留学生も同行していました。

津田梅子]はその後、女子教育に力を注ぎました。現在の津田塾大学の創設者となります。

 

 

2.中国・朝鮮との関係

明治新政府は、近隣諸国との国交を開こうとしました。

 

1871年、清と対等な条約である[日清修好条規]を結びました。

 

鎖国政策をとっていた朝鮮に対しては、1875年の江華島事件をきっかけに、翌1876年に[日朝修好条規]を結んで開国させることに成功しました。

この条約は、朝鮮にとって不平等な内容を含むものでした。

 

 

3.国境と領土の画定

政府は琉球王国を日本に組み込む方針をかためました。

 

1872年に琉球王国を琉球藩とし(1871年に廃藩置県が行われ、日本の本土に藩はもうなくなっているのですが)、さらに1879年に琉球藩を廃止して[沖縄県]を設置しました。

 

この一連のできごとを[琉球処分]といいます。

 

 

ロシアとは、1875年に[樺太・千島交換条約]を結び、[樺太]をロシア領、[千島列島]のすべてを日本領としました。

 

 

アメリカやイギリスが領有を主張していた小笠原諸島は、1876年に日本領であることが確定しました。