歴史5-2 江戸幕府の滅亡 解説

1.攘夷の挫折

1862年、現在の神奈川県で、[薩摩藩

(鹿児島県)の藩士が、大名行列を

横切ったイギリス人を殺害する

生麦事件]が起こりました。

 

イギリスは、これに対する報復として、

1863年に鹿児島を砲撃しました。

この薩英戦争を通して、薩摩藩は

その実力差を認識し、攘夷が不可能

であることを知りました。

 

 

一方の[長州藩](山口県)は、

下関海峡(関門海峡)を横切る

外国船を砲撃し、攘夷を実行しました。

 

これに対して、1864年、アメリカ、

オランダ、イギリス、フランスの4か国が

報復を行い、下関砲台を占領しました。

 

この四国艦隊下関砲撃事件によって、

長州藩も攘夷の不可能をさとりました。

 

 

これらの経験を通して、薩摩藩と長州藩は

幕府に反対の立場をとるようになり、

幕府をたおして新しい政府を樹立

することを考えるようになりました。

 

この両藩は、1866年、土佐藩(高知県)

の[坂本龍馬坂本竜馬)]らの仲介で

ひそかに[薩長同盟]を結び、

倒幕運動へと動き始めました。

 

 

このころ、薩摩藩では[西郷隆盛]や

大久保利通]が、長州藩では高杉晋作

木戸孝允]が、藩の実権をにぎるように

なりました。

 

 

2.民衆の動き

開国後の政治や経済の混乱のなか、

世直し」を期待する農民の一揆が

全国で多発するようになりました。

 

また、[ええじゃないか]と人々が

各地でおどりさわぐ現象も見られました。

 

 

3.[大政奉還

このような状況のなか、

江戸幕府の15代将軍[徳川慶喜]は、

1867]年10月、

政権を朝廷に返上することを表明しました。

これを[大政奉還]といいます。

 

これにより、260年あまり続いた

江戸幕府が滅亡しました。

 

 

 

4.新政府軍と旧幕府軍の戦い

徳川慶喜は、新しい政府で引き続き

実権をにぎろうと考えていましたが、

薩摩藩や長州藩を中心とする新政府側は、

朝廷を動かして王政復古の大号令を発し、

天皇を中心とする政治にもどすことを

宣言しました。

 

また、徳川慶喜を新しい政権から

除こうとしたため、

旧幕府側と新政府側は対立し、

両者の間で戦いが起こりました。

この戦いを[戊辰戦争]といいます。

 

1868年1月の鳥羽・伏見の戦い(京都)

から始まり、1869年5月の函館(北海道)

の五稜郭の戦いまで続きました。

 

その結果、旧幕府軍が降伏し、新政府が

国内統一を達成して新しい国づくりを

進めていくことになりました。