歴史5-1 開国 解説

1.開国

①日米和親条約

1853年アメリカ人ペリーが神奈川県の浦賀に来航し、日本に開国と通商(貿易)を要求しました。

1854年ペリーが再来航し、日本に開国をせまりました。これを受けて、日本はアメリカと日米和親条約を結び、開国しました。この時、現在の静岡県の下田と北海道の函館の2つの港を開くことと、日本がアメリカ船に食料・水・石炭などを供給することが決められました。

 

②日米修好通商条約

さらに、1858年には、幕府はアメリカと日米修好通商条約に調印しました。この条約では、日本は神奈川(横浜)など5港を開くことが決められました。

この条約は日本に不利な不平等条約でした。不平等な内容とは、日本は領事裁判権(治外法権)を認めることと、貿易において日本に関税自主権がないことの2つです。

領事裁判権(治外法権)を認めるということは、アメリカ人が日本で犯罪を起こした場合、日本の法律ではなくアメリカの法律で裁判が行われる、ということです。

幕府は同様の内容の条約を、ヨーロッパの各国とも結びました。

 

この条約の調印には反対の意見もありましたが、幕府の大老井伊直弼は反対派をおさえて調印にふみきりました。

こうして、200年以上続いた鎖国政策は終わり、日本は開国しました。

 

 

2.貿易の状況

日米修好通商条約をはじめ、各国と結んだ条約にもとづいて、欧米の国々との貿易が始まりました。 輸出品で最も多かったのが生糸で、全体の80%以上を占めていました。その次に多い輸出品はでした。 

当時の最大の貿易港は横浜、最大の貿易相手国はイギリスでした。

 

 

3.国内の動き

開国後の日本国内では、尊王攘夷運動が起こりました。これは、朝廷を尊重し、外国を追い払うという運動です。また、幕府に対しては批判が起こりました。

このような動きに対して、大老井伊直弼は反対派を処罰しました。このできごとを、安政の大獄といいます。

しかし1860年、このようなやり方に反発する勢力によって、井伊直弼は暗殺されました。これを桜田門外の変といいます。