歴史4-9 江戸時代⑦ 外国船の来航と幕府の動揺 解説

1.外国船の来航と幕府の対応

19世紀以降、通商を求めて外国船が

日本に多く来航するようになりました。

 

幕府はこれに対応するため、北方の調査

を進めました。

 

その結果、[間宮林蔵]は、[樺太]が

島であることを発見しました。

 

1825年、幕府は[異国船打払令

外国船打払令)]を出しました。

これは、鎖国を守るため、日本に近づく

外国船を砲撃して追い払うことを

命じたものです。

 

1837年、アメリカの船が日本の漂流民を

送り届けに来ましたが、この法令にもと

づいてアメリカ船を砲撃するという事件

が起こりました。

 

このとき幕府の政策を批判したのが

渡辺崋山高野長英で、2人は幕府に

よって処罰されました。

 

 

2.国内の動揺

国内では、1830年代に[天保のききん

が発生し、多くの餓死者が出て、

農村で[百姓一揆]、

都市で[打ちこわし]が急増しました。

 

このような状況において、

もと大阪町奉行所の役人で陽明学者の

大塩平八郎]が、1837年に弟子など

とともに反乱をおこしました。

 

これを[大塩の乱大塩平八郎の乱)]

といいます。

反乱は1日でしずめられましたが、

幕府はもと役人が反乱を起こしたことに

衝撃を受けました。

 

 

農村でも変化が見られました。

大商人や地主が農村内に工場をつくり、

農民をやとって分業で製品を生産させる

しくみが広がりました。

このような生産方法を

工場制手工業マニュファクチュア)]

といいます。

 

 

3.[天保の改革

外国船の来航や国内の動揺に対応するため

老中の[水野忠邦]が改革を行いました。

 

これを[天保の改革]といいます。

 

まず、物価の上昇をおさえるため、

営業を独占していた[株仲間]を

解散させました。

 

また、江戸に出かせぎに来ていた農民を

農村に帰らせました。

 

さらに、江戸・大阪周辺の農村を

幕領にする命令を出しましたが、

大名や旗本の反対を受けて中止となり、

水野忠邦]は失脚しました。

 

結局、改革は2年余りで失敗しました。