歴史3-3 鎌倉時代③ 蒙古襲来と幕府の滅亡 解説

1.蒙古襲来

13世紀の初め、モンゴル高原から現れた

チンギス・ハンが、中央アジアを征服

しました。

 

その孫の代には、ユーラシア大陸の

大半を征服し、モンゴル帝国という

大帝国を築きました。

 

チンギス・ハンの孫の1人が

フビライ・ハン]です。彼は中国を

支配して、国号を[]としました。

 

フビライ・ハン]は、朝鮮半島の

高麗を従えると、日本に対しても服属

することを求めてきました。

 

 

鎌倉幕府の8代執権[北条時宗]は、

服属の要求を拒否しました。

 

すると、[]は、大軍を率いて

1274年と1281年の2度にわたって

日本をおそってきました。

この戦いを[元寇]といいます。

 

 

1274年の戦い(文永の役)では、

日本の御家人は、元の[集団戦法]や

火薬を使った武器に苦戦しましたが、

暴風雨の影響で元軍はすぐに

引き上げました。

 

次の1281年の戦い(弘安の役)では、

幕府が海岸に築かせた石塁(防塁)

のため、元軍は上陸することすらできず、

暴風雨により大損害を受け、

引き上げました。

 

 

2.鎌倉幕府の衰退

元の襲来を退けた後、御家人の生活は

苦しくなっていきました。

 

その理由としては、

まず、元との戦いに対する恩賞が

不十分であったことがあげられます。

 

外国との戦いであったため、新たな

領地が得られず、十分な御恩が

与えられなかったのです。

 

別の理由として、

当時の御家人の領地は[分割相続

によって受け継がれていたため、

御家人の領地が小さくなっていき、

生活が苦しくなった点があげられます。

 

 

このような状況に対し、鎌倉幕府は

生活の苦しくなった御家人を救うため

1297年に[徳政令永仁の徳政令)]

を出して、[借金の帳消し]や、

御家人が失った土地をただで取り戻させる

ことにしました。

 

しかし、かえって経済が混乱し、御家人

たちは幕府への不満を強めていきました。

 

また、このころになると、荘園領主に

年貢を納めず、幕府にも従わない[悪党

とよばれる新興の武士などの集団が現れ

ました。

 

 

3.鎌倉幕府の滅亡

幕府の弱体化を見た[後醍醐天皇]は

政治の実権を朝廷に取り戻そうとして

幕府をたおそうと計画しました。

 

これに有力御家人の[足利尊氏]らも協力し

1333年、鎌倉幕府は滅亡しました。